夏目雅子はなぜ亡くなった?兄が語る白血病以外の本当の死因

1985年9月11日、わずか27歳という若さでこの世を去った伝説の女優の夏目雅子さん。

多くの人が夏目雅子はなぜ亡くなったのかという疑問を抱き続けています。

一般的には急性骨髄性白血病が死因とされていますが、実は真実はもう少し複雑です。

夏目雅子さんは美しい容姿と演技力で多くの人を魅了し、西遊記の三蔵法師役や鬼龍院花子の生涯での熱演は今でも語り継がれています。

しかし夏目雅子さんの人生は病気との闘いでもありました。

夏目雅子さんバセドウ病の手術を受けた過去もあり、複数の健康問題を抱えていたのです。

兄である小達一雄さんの証言によると、夏目雅子の直接的な死因は白血病ではなく肺炎だったという驚くべき事実が明らかになっています。

白血病は一度寛解状態に入っていたものの、抗がん剤治療による免疫力低下が原因で風邪から肺炎を併発し、それが命取りとなったのです。

現在でも夏目雅子の生まれ変わりと噂される女優の波瑠さんが話題になるなど、彼女の存在は色褪せることがありません。

この記事では夏目雅子さんはなぜ亡くなったのかという疑問に対し、これまで知られていなかった真実の死因について詳しく解説していきます。

夏目雅子はなぜ亡くなったのか – 白血病から肺炎へと変わった真の死因

夏目雅子さんの死因は一般的に急性骨髄性白血病とされていますが、実際の直接的な死因は肺炎でした。

兄である小達一雄さんの証言により、白血病自体は寛解状態にあったことが明らかになっています。

この事実が長年明かされなかった背景には、当時の医療状況と報道のあり方があります。

1985年当時、白血病は不治の病として恐れられており、メディアも白血病による死亡として報じました。

しかし実際には、抗がん剤治療によって免疫力が極度に低下していた夏目雅子さんが、1985年8月中旬に風邪をひいたことから肺炎を併発し、それが致命的な結果を招いたのです。

小達一雄さんは後年のインタビューで「肺炎になってから意識が混濁し始めて、肺不全となり数日の間で亡くなりました。

僕らも病院の先生も、ここまで病状が悪化するとは予想できませんでした」と振り返っています。

このように、夏目雅子さんの真の死因は白血病そのものではなく、治療過程で生じた合併症である肺炎だったのが事実です。

急性骨髄性白血病の発症から闘病まで

夏目雅子さんが急性骨髄性白血病と診断されたのは、1985年2月15日のことでした。

発症の兆候は舞台「愚かな女」の公演中から現れており、10円玉ほどの大きさの口内炎と激しい頭痛に悩まされていました。

病気の発見経緯は劇的でした。2月14日、舞台に立っていられないほどの体調不良に陥った夏目雅子さんはそれでも「這ってでも舞台に戻る」と病院への搬送を拒み続けました。

共演者の西岡徳馬さんの強い勧めにより、翌15日に慶應義塾大学病院で検査を受けた結果、急性骨髄性白血病の診断が下されたのです。

診断時の夏目雅子さんの状態は深刻で、医師からは98.3パーセントの確率で急性骨髄性白血病であると家族に告げられました。

ただし本人には「重度の貧血」とだけ伝えられ、真の病名は伏せられていました。これは当時の医療慣行に従ったもので、がんの告知は一般的ではありませんでした。

治療は困難を極めました。

当初の2度の抗がん剤治療では効果が見られず、最終的に副作用の激しい新薬での治療に踏み切ることになります。

この新薬は髪の毛が完全に抜け落ち、30パーセント以上の確率で命を落とすリスクがありましたが、夏目雅子さんは「私、日本で一番坊主頭が似合う女優って言われているのよ。そんなこと気にならないわ」と前向きに治療を受け入れました。

新薬治療により白血病の症状は消失し、寛解状態に達したのです。

バセドウ病など複数の病気との闘いの歴史

夏目雅子さんは急性骨髄性白血病以前から、複数の健康問題を抱えていました。

最も知られているのが1981年に手術を受けたバセドウ病で、これは甲状腺機能亢進症の一種です。

バセドウ病の手術を受けたのは、夏目さんが24歳の時でした。

この年は「野々村病院物語」や NHK大河ドラマ「おんな太閤記」に出演していた時期で、女優として充実した活動を続けていた最中の出来事でした。

バセドウ病は甲状腺ホルモンが過剰に分泌される病気で、動悸や体重減少、眼球突出などの症状が現れます。

夏目雅子さんの場合はこの病気が演技活動にどの程度影響を与えたかは詳細には語られていませんが、手術により症状は改善されました。

さらに夏目雅子さんは腎盂炎の持病も抱えていたとされています。

腎盂炎は腎臓の感染症で、発熱や腰痛を引き起こす疾患です。

また、あるスポーツ紙の記者の証言によると、夏目雅子さんが約1年間仕事を休んでいた時期があり、復帰時のインタビューで「子宮にヘンなでき物ができて、長くかかってしまって」と語ったことが記録されています。

当時の記者たちはこの発言があまりにも率直だったため、報道を控えることを申し合わせたといいます。

家族の病歴を見ると、母親のスエさんも扁桃腺肥大の問題を抱えていました。

また、父親は1979年にスキルス性胃癌を患い、手術を受けたものの翌年に47歳で亡くなっています。

夏目雅子さんは父親の手術の際、医師から「気絶してしまうからやめなさい」と忠告されたにもかかわらず、手術の一部始終を直接見守ったという逸話も残されています。

白血病は寛解していた – 直接的な死因は肺炎だった事実

夏目雅子さんの白血病は新薬による治療により寛解状態に達していました。

寛解とは、病気の症状が消失し安定している状態を指し、夏目雅子さんの場合も白血病細胞は検出されなくなっていたのです。

この重要な事実は兄の小達一雄さんによって後年明かされました。

新薬治療は想像を絶する副作用を伴いましたが、髪の毛が完全に抜け落ち、吐き気、倦怠感、めまい、眼底出血などの症状に耐え抜いた結果、ついに白血病の症状が消えたのです。

医療関係者も家族も、この時点では回復への道筋が見えていました。

しかし悲劇は1985年8月中旬に起こりました。抗がん剤治療により免疫力が最も低下していた時期に、夏目さんは風邪をひいてしまったのです。

健康な人であれば軽微な風邪で済んだであろう症状が免疫力の極度に低下した夏目さんにとっては致命的でした。

風邪から肺炎を併発し、その後の経過は急速に悪化していきました。

小達一雄さんの証言によると「肺炎になってから意識が混濁し始めて、肺不全となり数日の間で亡くなりました」とのことです。

医師も家族も、ここまで急激に病状が悪化するとは予想していませんでした。

9月8日には一時的に熱が下がり希望の光が見えましたが、翌9日には再び高熱が出て意識不明の重体となり、9月11日午前10時16分に慶應義塾大学病院で息を引き取りました。

この経緯から明らかなように、夏目雅子さんの直接的な死因は白血病そのものではなく、治療による免疫力低下が招いた肺炎だったのです。

抗がん剤治療による免疫力低下が招いた悲劇

夏目雅子さんの命を奪ったのは、抗がん剤治療による免疫力の極度な低下でした。

新薬による治療で白血病は寛解したものの、その代償として体の防御機能が著しく弱くなっていたのです。

抗がん剤は癌細胞を攻撃する一方で、正常な免疫細胞も破壊してしまいます。

夏目雅子さんが受けた新薬治療は特に副作用が激しく、兄の一雄さんが医師から受けた説明では「副作用で髪の毛は抜け、30パーセント以上の確率で命を落とす」という危険性の高いものでした。

実際に夏目雅子さんは髪の毛が完全に抜け落ち、吐き気、倦怠感、めまい、眼底出血など想像を絶する副作用に襲われました。

この治療により白血病細胞は消失しましたが、同時に体を守る白血球も大幅に減少していました。

1985年8月中旬、免疫力が最も低下していた時期に夏目さんは風邪をひいてしまいます。

健康な人であれば数日で治る軽い風邪が、免疫力の低下した夏目さんにとっては致命的な感染症の引き金となりました。

風邪ウイルスが肺に侵入し、本来であれば免疫システムが阻止するはずの肺炎を併発したのです。

通常の肺炎であれば抗生物質などで治療可能ですが、免疫力が極度に低下した状態では薬剤の効果も限定的でした。

肺炎は急速に悪化し、肺の機能を奪っていきます。

小達一雄さんによると「肺炎になってから意識が混濁し始めて、肺不全となり数日の間で亡くなりました」という急激な経過をたどったのです。

これが抗がん剤治療の皮肉な結果であり、白血病を克服しながらも命を失うという悲劇の真相でした。

兄が語る「死因は白血病ではない」という証言の真意

兄の小達一雄さんが「死因は白血病ではない」と証言した背景には、正確な医学的事実を伝えたいという強い想いがありました。


*出典:https://www.jikeigroup.net

長年にわたって「白血病で亡くなった女優」として語り継がれてきた夏目雅子さんですが、実際の死因はより複雑な経緯をたどっていたのです。

小達一雄さんがこの証言を行ったのは、2019年11月21日放送のフジテレビ系番組「直撃シンソウ坂上」でのことでした。

番組MCの坂上忍さんに対して、これまで公にされてこなかった真実を語ったのです。

一雄さんは「僕らも病院の先生も、ここまで病状が悪化するとは予想できませんでした。

雅子の最期の言葉も覚えていないんです。それほど予想外の出来事でした」と振り返っています。

この証言の真意は白血病そのものが直接的な死因ではなく、治療過程で生じた合併症である肺炎が命を奪ったという医学的事実を明確にすることでした。

白血病は確かに寛解状態にあり、病気自体は治まっていたのです。

しかし抗がん剤治療による免疫力低下という副作用が風邪から肺炎への進行を防げなかったという構図があります。

一雄さんがこの事実を公表した理由には、同じような状況で闘病している患者や家族への配慮もあったと考えられます。

白血病は治療可能な病気であることを示すとともに、治療過程で起こりうるリスクについても正しく理解してもらいたいという医療啓発の意味合いもあったと思われます。

また、長年にわたって誤解されてきた妹の死因について、家族として正確な情報を伝える責任を感じていたことも想像されます。

何歳で亡くなった?生きてたら何歳? – 最期の様子と家族の想い

夏目雅子さんは1985年9月11日午前10時16分、27歳という若さでこの世を去りました。

1957年12月17日生まれの夏目雅子さんが生きていれば、2025年7月現在で67歳になっていたはずです。

夏目雅子さんの最期の3日間は、家族にとって忘れることのできない時間でした。

 
 
 
 
 
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9月8日には一時的に熱が下がり、家族は回復への希望を抱いていました。

しかし翌9日には再び高熱が出て意識不明の重体となり、慶應義塾大学病院の病室で静かに息を引き取ったのです。

兄の小達一雄さんは「雅子の最期の言葉も覚えていないんです。それほど予想外の出来事でした」と振り返っており、あまりにも急激な容態の変化だったことがうかがえます。

夏目雅子さんの最期を看取った家族の想いは複雑でした。

母親のスエさんは、新薬治療に当初反対していたことを深く後悔し「髪の毛のことなど気にせず、私が最初から新薬で治療をさせていたら」と自分を責め続けました。

一方で、闘病中に夏目雅子さんと過ごした時間は母娘の絆を深める貴重な期間でもありました。

これまで夏目雅子さんの出演作品を一度も見たことがなかった母親が病室で一緒に過去の作品を鑑賞するようになったのです。

夏目雅子さんは亡くなる直前まで、母親と刺繍で2輪のひまわりを作っていました。

右のひまわりを母親が左のひまわりを夏目雅子さんがお互いの思いを込めて制作していたのですが、病院では完成させることができませんでした。

夏目雅子さんが亡くなった後、母親が最後に残った茎の部分を仕上げて刺繍を完成させたという逸話は母娘の深い愛情を物語っています。

27歳という人生の最も美しい時期に旅立った夏目雅子さんですが、その短い生涯は家族にとってかけがえのない思い出として刻まれ、2025年7月現在でも愛し続けられているのです。

 

夏目雅子はなぜ亡くなったのか – 美しき女優の生涯と闘病の軌跡

夏目雅子さんの人生は美しさと才能に恵まれながらも病気との闘いに彩られた27年間でした。

六本木の裕福な家庭に生まれ、お嬢様として育った夏目雅子さんが女優の道を選んだのは、幼い頃から抱いていた演技への憧れからでした。

夏目雅子さんが女優を志すきっかけとなったのは、小学3年生の時に見たテレビドラマ「チャコちゃんハーイ」と、17歳の時に観たイタリア映画「ひまわり」でした。

特にソフィア・ローレンの演技に衝撃を受けた夏目雅子さんは強い女性への憧れを抱くようになります。

1975年、18歳の時に父親の友人の紹介でCMに出演したことで芸能界入りし、東京女学館短期大学を中退して本格的に女優の道を歩み始めました。

しかし女優としてのスタートは決して順調ではありませんでした。

1975年のデビュー作「愛が見えますか」では、盲目のヒロイン役でNGを57回も出し、演技の未熟さから「お嬢さん芸」と酷評されました。

それでも夏目雅子さんは諦めることなく、1977年のカネボウ化粧品CM「クッキーフェース」で注目を集め、1978年の「西遊記」で三蔵法師役を演じて大ブレイクを果たします。

その後「鬼龍院花子の生涯」でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、演技派女優としての地位を確立しました。

私生活では1984年に作家の伊集院静さんと結婚し、幸せな新婚生活を送っていました。


*出典:https://bunshun.jp

しかし結婚からわずか半年後の1985年2月、舞台「愚かな女」の公演中に体調を崩し、急性骨髄性白血病と診断されたのです。

約7か月間の闘病生活を経て、同年9月11日に肺炎により27歳で生涯を閉じました。

2025年7月現在でも、夏目雅子さんの美しさと演技力は色褪せることなく、多くの人々に愛され続けています。

美しいと称された伝説の女優の生い立ちと経歴

夏目雅子さんは、その比類なき美貌と気品のある佇まいで「美しい女優」の代名詞的存在となりました。

1957年12月17日に神奈川県横浜市中区山手の裕福な家庭に生まれた夏目雅子さんはまさに絵に描いたようなお嬢様として育ったのです。

夏目雅子さんの生い立ちはその後の美しさの源泉を物語っています。

実家は六本木で輸入雑貨店「亀甲屋」を営む名家で、江戸時代には徳川家に御典医として仕えていた由緒ある家系でした。

横浜の実家は元モービル石油日本支社社長の旧邸宅で、その敷地は250坪という豪邸で、千葉県館山には別荘も所有していました。

このような恵まれた環境で育った夏目雅子さんは自然と品格と美しさを身につけていったのです。

幼少期から文学的才能も発揮していた夏目雅子さんは高校時代には俳句を始めました。

種田山頭火のファンで、「ぬぐってもぬぐっても汗みどろ」から「水中花何想う水の中」まで、感性豊かな自由律俳句を詠んでいました。

結婚後は「東京俳句倶楽部」に参加し、俳号「海童」として活動するなど、外見の美しさだけでなく内面的な美しさも兼ね備えていました。

芸能界入りのきっかけは、18歳の時に父親の友人の紹介でCMに出演したことでした。

その後1977年のカネボウ化粧品CM「クッキーフェース」で一躍注目を集めます。

健康的に日焼けした水着姿の夏目雅子さんは当時の美の基準を塗り替える衝撃的な美しさで、一世を風靡しました。

このCMでの美しい姿は2025年7月現在でも伝説として語り継がれており、夏目雅子さんの代表的なイメージとして人々の記憶に刻まれています。

「鬼龍院花子の生涯」で確立した演技派女優としての地位

1982年公開の映画「鬼龍院花子の生涯」は夏目雅子さんが「お嬢さん芸」という酷評を覆し、真の演技派女優として認められた記念すべき作品でした。


*出典:https://ameblo.jp

この映画での熱演により、夏目雅子さんは演技力で評価される女優への転換点を迎えたのです。

それまでの夏目雅子さんはデビュー作「愛が見えますか」で盲目のヒロイン役においてNGを57回も出すなど、演技の未熟さを指摘され続けていました。

お嬢様育ちという出自もあって「お嬢さん芸」と揶揄され、美貌だけで売れている女優という厳しい評価を受けていたのです。

しかし「鬼龍院花子の生涯」では、極道の娘という従来のイメージとは正反対の役柄に挑戦しました。

この映画で夏目さんが演じたのは、土佐の侠客一家である鬼龍院家の娘・花子役でした。

五社英雄監督の演出のもと、夏目雅子さんはヌードシーンの代役を断り、自ら体当たりの演技で挑みました。

特に有名になったのが「なめたらいかんぜよ」というセリフで、このセリフは流行語にもなったほどです。

夏目雅子さんはこの作品で、それまでの上品なお嬢様のイメージを完全に払拭し、激しい感情を表現する演技力を見せつけました。

映画の評価は非常に高く、夏目雅子さんは1982年度のブルーリボン賞主演女優賞を受賞しました。

授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とユーモラスにコメントし、過去の酷評を逆手に取った余裕を見せました。

この受賞により、夏目雅子という女優は美貌だけでなく確かな演技力を持つ本格派として業界内外から認められるようになったのです。

「鬼龍院花子の生涯」は夏目雅子さんの女優人生における最も重要な転換点となった作品として、2025年7月現在でも高く評価され続けています。

結婚直後に襲った病魔 – 舞台「愚かな女」での体調異変

夏目雅子さんの人生最大の悲劇は結婚という人生の節目の直後に訪れました。

1984年12月に伊集院静さんと結婚してからわずか3か月後の1985年2月、初の主演舞台「愚かな女」の公演中に深刻な体調異変が現れたのです。


*出典:https://jp.pinterest.com

この舞台は夏目雅子さんにとって特別な意味を持っていました。

映画で演技力を認められた夏目雅子さんがついに舞台でも主演を務めることになった記念すべき作品だったからです。

しかし公演が始まった頃から、夏目雅子さんの体には異変が起きていました。

2月14日のバレンタインデーに10円玉ほどの大きさという異常に大きな口内炎ができ、さらに激しい頭痛に悩まされるようになったのです。

当時の夏目雅子さんの状況は深刻でした。舞台に立っていられないほどの体調不良に陥っていたにもかかわらず、女優としての責任感から「這ってでも舞台に戻る」と言い張り、病院への搬送を頑なに拒み続けました。

共演者たちは夏目雅子さんの様子がただごとではないことに気づいていましたが、本人の強い意志で公演は続行されました。

しかし役者仲間も心配するほど、夏目雅子さん本来の演技に比べて精彩を欠いたものとなってしまいました。

転機となったのは共演者の西岡徳馬さんの強い勧めでした。

千秋楽まであと10日となった時点で、西岡徳馬さんをはじめとする周囲の人々が夏目雅子さんの身体の状態を深刻に受け止め、ついに病院での検査を受けるよう説得したのです。

翌2月15日、慶應義塾大学病院での検査の結果、急性骨髄性白血病という診断が下されました。

新婚生活の幸せの絶頂から、突然の難病宣告という現実に直面した夏目雅子さんと家族の衝撃は想像を絶するものでした。

闘病中に見せた女優魂 – 復帰への強い意志と家族の支え

夏目雅子さんは闘病中も最後まで女優としての誇りと復帰への強い意志を失いませんでした。

病気の告知を受けた直後の混乱から立ち直るきっかけとなったのは、演出家の福田陽一郎さんの叱咤激励でした。

急性骨髄性白血病の診断を受け、舞台の降板を告げられた夏目雅子さんは4階の病室で「ここから飛び降りてでも私は劇場に行く」と半狂乱状態になりました。

 
 
 
 
 
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兄の一雄さんらが必死に羽交い締めにして飛び降りを阻止する中、見舞いに来た福田陽一郎演出家が夏目雅子さんを一喝したのです。

「ふざけるな。『愚かな女』はお前の舞台なんだ。だからどんなことがあっても、お前が復帰するまではこの舞台は再演をかけない。芸能人は支持してくれるファンの方のために、きちんと対応できる体力を持ってないとプロとは呼べない」という言葉に、夏目雅子さんは涙を浮かべて「わかった」と答えました。

この出来事を境に、夏目雅子さんは女優として復帰する日を夢見て決して弱音を吐かず治療に向き合うようになりました。

特に印象的だったのは、副作用で髪の毛が抜けることを告げられた時の反応です。

家族が恐る恐る脱毛の副作用について伝えると、夏目雅子さんは「私、日本で一番坊主頭が似合う女優って言われてるのよ。そんなこと気にならないわ」とこともなげに言いました。

これは「西遊記」で三蔵法師を演じた経験を踏まえたユーモアある発言でした。

闘病生活は家族の絆も深めました。

これまで夏目雅子さんの芸能活動に反対し続けていた母親のスエさんが、娘の病気をきっかけに大きく変化したのです。

ある夜、一雄さんが帰宅すると、録画した夏目雅子さんの出演作品を母親が食い入るように見ていました。

それから母親と夏目さんは病室で一緒に過去の出演作を見るようになり、母親は誰よりも夏目雅子のファンになろうとしました。

この時期に母娘で制作していた刺繍のひまわりは二人の深い愛情を象徴する作品として2025年7月現在も大切に保管されています。

夏目雅子の生まれ変わりと噂される波瑠との共通点

女優の波瑠さんは夏目雅子さんの生まれ変わりではないかと言われるほど驚くべき共通点を持っています。

両者の表情やしぐさがあまりにも似ていることから、多くの人が「平成の夏目雅子」として波瑠さんを認識しているのです。

この生まれ変わり説が生まれた背景には、いくつかの偶然の一致があります。

夏目雅子さんは1985年9月11日に亡くなり、波瑠さんは1991年6月17日生まれです。スピリチュアルな観点から見ると、人が生まれ変わるのに必要な期間を考慮すれば、この6年間という時期的な差は生まれ変わりの可能性を示唆していると考える人もいます。

夏目雅子さんの姪の名前が小達はるなさんで、波瑠さんの芸名「はる」との音の類似性も話題になりました。

実際に波瑠さんと夏目雅子さんの顔立ちを比較すると、その類似度は驚異的です。

特に目元の表情や口元の形、そして何より凛とした美しさが共通しています。

波瑠さんが2015年頃から注目を集めるようになった際、多くの芸能関係者やファンが「夏目雅子にそっくり」と指摘しました。

朝日新聞でも「夏目雅子をほうふつとさせ、生まれ変わりではないかと言われるほど」と報じられたほどです。

波瑠さん自身は夏目雅子さんについて「私が生まれた時には既に亡くなられていました。憧れとか目標とかいう感じではなく、違う世界にいらっしゃる方のように思えます」とコメントしています。

しかし2025年7月現在でも、この生まれ変わり説は多くのファンの間で語り継がれており、両者の美しさの共通性が話題となり続けています。

ひまわり基金設立 – 夏目雅子の遺志を継ぐ医療用かつら支援活動

夏目雅子ひまわり基金は夏目さんの闘病体験から生まれた医療用かつらの無償貸与活動として1993年に設立されました。

この基金は抗がん剤治療や病気による脱毛で悩む患者さんたちの社会復帰を支援する重要な役割を果たしています。

基金設立のきっかけは、兄の小達一雄さんが夏目さんの闘病中に感じた切実な思いでした。

夏目雅子さんは新薬治療により髪の毛が完全に抜け落ちましたが、闘病中にかつらを準備していたのです。

一雄さんは夏目さんの他にも髪の毛が抜けることを恐れて治療を受けない人たちが大勢いることを知り、かつらを無料で貸し出す事業を始めようと決意したのです。

母親のスエさんも「髪の毛のことなど気にせず、私が最初から新薬で治療をさせていたら」という後悔の念から、この活動に強く賛同しました。

夏目さんが亡くなって8年経った1993年、母親のスエさんが代表に就任して基金が正式に発足しました。

スエさんは精力的に活動を続け、多くの患者さんにかつらを無償提供しました。


*出典:http://blog.livedoor.jp

基金の名前に「ひまわり」が選ばれたのは、夏目雅子さんが母親と一緒に制作していた刺繍のひまわりから取られたものです。この刺繍は母娘の深い愛情の象徴であり、基金の理念を表現しています。

2008年にスエさんが他界した後は一雄さんが事業を引き継いでいます。

基金は賛助会員の会費や募金をもとに運営され、2025年7月現在でも毎年500から700人にかつらを無償提供し続けています。

2023年には設立30年を迎え、これまでに数万人の患者さんが支援を受けてきました。

夏目雅子さんの闘病体験から生まれたこの基金は、現在でも多くの人々に希望と勇気を与え続けているのです。

夏目雅子はなぜ亡くなったのか?についてのまとめ

  • 夏目雅子は1985年9月11日、27歳という若さで亡くなった
  • 直接の死因は急性骨髄性白血病ではなく肺炎による肺不全だった
  • 1985年2月14日、舞台「愚かな女」公演中に10円玉ほどの口内炎と激しい頭痛で体調不良を訴えた
  • 翌日2月15日、慶應義塾大学病院で検査を受け急性骨髄性白血病と診断された
  • 本人には病名は告知されず「重度の貧血」と説明されていた
  • 当時の急性骨髄性白血病は不治の病と言われており特効薬がなかった
  • 新薬での治療には髪が抜け落ちる副作用があり、30%以上の確率で命を落とすリスクがあった
  • 母親は「髪は女の命」として新薬治療に反対していた
  • 夏目雅子は「日本で一番坊主頭が似合う女優」と言って新薬治療を受け入れた
  • 想像を絶する副作用(吐き気、倦怠感、めまい、眼底出血)に襲われながらも治療を続けた
  • 新薬治療により白血病の症状は一時的に消失し寛解状態となった
  • 1985年8月中旬、抗がん剤治療で免疫力が最も低下していた時期に風邪をひいた
  • 風邪から肺炎を併発し、意識混濁が始まった
  • 肺炎から肺不全となり、数日間で急速に病状が悪化した
  • 家族も医師も予想できないほど急激な悪化で最期の言葉も覚えていないほどだった
  • 結婚からわずか1年、女優として最も輝いていた時期での突然の死だった
  • 1981年にはバセドウ病の手術も受けており、複数の病気と闘ってきた
  • 腎盂炎の持病や子宮のできもので長期間仕事を休んだこともあった
  • 兄の小達一雄さんは「死因は白血病ではない」と明言している
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